早く引退したいが後継者不在
S社長(47歳)には、社員には話していない秘密があった。実は、心臓に持病を抱えているのだ。
いますぐ、命がどうこうというわけではないが、主治医は「できるだけ、おだやかな生活をしてください」と。
しかし、社長業にストレスはつきものだ。
S社長は、大学卒業後、地元の九州でソフトウエアの開発会社を立ち上げた。
もう20年以上前のことだ。設立当初は事務処理や会計関連のパッケージソフトを手がけていたが、やがてWebにシフト。
時代の波に乗り、業績が一気に伸びた。上場企業からの定期的な仕事も入るように。
現在は社員が30名、年商も15億円を超えている。
「もう、十分だろう」。自分の健康のことを考えたら、なるべく早めに第一線から退きたい。
しかし、後継者が見当たらない。S社長には娘が2人いたが、どちらも会社を継ぐ意思はない。
一方、社員は数名の事務を除けば、ほとんどが開発専門のクリエーター。
みんなその道のプロとして優秀だけれども、経営についてはなんの知識も関心もない。社長を継げる人材は、どこにもいなかった。
どうしたらいのだろう?困っていたS社長に救いの手を差し伸べたのは、意外にも東京の大学に進学していた長女だった。
「先輩の父親の会社が後継問題で揺れた時、専門家に相談して無事乗り越えることができた…」という話をメールで送ってきたのだ。彼女なりに父親の体調を心配して、助言してくれたのだろう。
東京のコンサルタントなら、M&Aの相談をしても、地元で「あそこは身売りをしようとしている」などと、うわさが広まる心配もないだろう。さっそく信頼できるコンサルタントを探してアポイントを取り、東京に飛んだ。

「社員たちが得をするM&A」を
「社長自身の引退後の生活資金が必要で、お嬢さんたちに資産を残したい。そんなお気持ちがあることを考えると、M&Aで会社を売却されるのがいちばんいい方法だと思います。経営をだれかにゆだねるとして、社長がいちばん気にされているのは、どんなことでしょう?」
コンサルタントの質問に対して、S社長はこう答えた。
「会社を去るとしても、社員との信頼関係は失いたくありません。『社長は代わったけれど、これでよかった。将来も安心だ』と社員が納得してくれることが、いちばんの願いです」
これに対し、コンサルタントは次のような提案をした。
「M&Aにもいろいろなパターンがあります。今回のM&Aでは、『社員たちが幸せになるM&A』という捉え方で、売却相手を考えてみてはいかがでしょうか?」。
社員たちが得をするM&A。それならいいかもしれない。
コンサルタントの言葉を聞きながら、S社長の気持ちはM&Aに傾いていった。
最初の課題は、役員たちの持ち株だった。実は、会社設立時から一緒に苦労してきた役員たちには、株を少しずつわけてある。M&A話をスムーズに進めるためには、あらかじめ役員たちから社長が株を買い取り、100%の持ち株をもって交渉にのぞむほうがいい。
しかし、コンサルタントの話では、現在の会社の株の価額はそれほど高くない。
しかしM&Aの際には、4倍近い価額になると考えられる。もしM&A前に役員たちの株を買い取れば、「社長は自分たちから安く買い取り、高値で売った」と思われるかもしれない。それは避けたい。
この心配に対して、コンサルタントは「それなら、M&Aの売却先に、役員さんたちの持ち株を売却時の価額で買い取ってもらえばいいでしょう。『M&Aをしてよかった』と思っていただけるのでは」と提案してくれた。
社員のボーナスを一律アップ
役員だけではなく、社員全員に「M&Aをしてよかった」と思ってもらいたい。
そんなS社長の意向に沿って、M&A実施年度のボーナスを増やすことを決めた。そのコストの分だけ、売却代金が下がる。
つまりS社長が受け取るお金が減るが、社員が喜んでくれるならそれでかまわない。
さらにM&A前に、S社長の保有している株の一部を、娘たちに移しておくこともコンサルタントは提案。
M&A時に株の売却代金が個人所得として娘たちに渡ることになる。
その際にかかる所得税は、S社長が持ち株を売って得たお金を娘たちに渡す場合にかかる相続税・贈与税よりも低いからだ。
コンサルタントの門をたたいてから1年後。関西に拠点を置く同業者に7億円で売却することが決まった。
売却相手は、雑誌などで取材を受けるほど、経営手腕にすぐれた社長。
30代後半のその社長は、契約をすませて、S社長と握手をかわしながらこういった。
「社員のみなさんのことはおまかせください。『M&Aをしてよかった』と思っていただけるよう、誠心誠意がんばります」
この言葉を聞き、S社長は肩の荷がすっとおりるのを感じた。